その夜、閉会した議会棟から一人で歩き出した彼女は、革のパンプスをそっと手に持っていました。
コツ、コツ、と鳴るはずのヒールの音がない静かな帰り道。
アスファルトの冷たさが、足の裏からじわりと伝わってきます。
日中の委員会で、子育て世帯への補助金拡充を訴えた彼女の言葉は、野次と失笑に飲み込まれました。
「そんな金はどこにある」「また女子供の話か」。
その声は、彼女の政策ではなく、彼女という“存在”そのものを否定しているように聞こえました。
「どうして、ここまでして…」。
誰もいない道で、ようやくこぼれ落ちた小さなため息。
それは、志だけでは超えられない、分厚く、そして透明な壁にぶつかった音でした。
こんにちは、政治ジャーナリストの瀬尾茉莉です。
私が主宰するメディア『PoliShe』では、こうした女性政治家たちの“声にならない声”を拾い集めてきました。
この記事を読んでいるあなたも、社会や組織の中で、性別を理由にした「見えない壁」を感じたことがあるかもしれません。
今回は、政界に根強く存在する「ガラスの天井」の正体について、彼女たちのリアルな声を通して、あなたと一緒に考えていきたいと思います。
政治は“向こう側”の話ではない。
きっと、あなたの明日と地続きにあるはずです。
そもそも「ガラスの天井」とは何か?言葉の裏にある“痛み”
「ガラスの天井」とは、能力や実績があっても、性別や人種などを理由に、それ以上は昇進できない「見えない障壁」を指す言葉です。
1980年代にアメリカで使われ始め、今では世界共通の課題として認識されています。
特に日本の政界において、この壁は驚くほど厚く、そして強固です。
2024年4月時点のデータで、日本の衆議院に女性議員が占める割合は、わずか10.0%。
これは、列国議会同盟(IPU)の調査によれば、世界185カ国の中で169位という現実です。
先進7カ国(G7)の中では、議論の余地なく最下位。
この数字は単なるデータではありません。
社会の半分を構成する女性の声が、意思決定の場にほとんど届いていないという“痛みを伴う現実”の証明なのです。
私が駆け出しの記者だった頃、あるベテランの男性秘書にこう言われたことがあります。
「瀬尾さん、選挙はな、地盤、看板、カバンが三種の神器なんだよ」。
地盤は後援会組織、看板は知名度、そしてカバンは選挙資金。
この“常識”こそが、多くの女性にとって、スタートラインに立つことすら阻む最初の壁になっていることに、当時の私はまだ気づいていませんでした。
声なき声が明かす、女性政治家を阻む「5つの見えない壁」
では、具体的に「ガラスの天井」とは何でできているのでしょうか。
私がこれまで取材してきた何人もの女性政治家たちの言葉をたどると、共通する5つの“壁”が浮かび上がってきます。
1. 意識の壁:「女には無理」という無数の矢
「当選したての頃、有権者の方に『先生によろしく』と挨拶したら、『先生は主人です。私は妻です』と言われたことが何度もあります」。
そう苦笑したのは、30代で初当選したある市議でした。
挨拶回りで「女じゃ話にならん」「若い娘に何ができる」と面と向かって言われる。
政策の話をしようとしても、まず「女性であること」への偏見という鎧を剥がすところから始めなければなりません。
こうした無意識のバイアスは、時に鋭い矢となって彼女たちの心を突き刺し、活動のエネルギーを奪っていきます。
2. 制度の壁:高すぎる立候補の“参加費”
日本の選挙制度には、立候補する際に法務局へ預ける「供託金」という仕組みがあります。
例えば、衆議院の小選挙区で立候補するには300万円が必要です。
これは世界でも非常に高額で、特に男性に比べて経済的基盤が弱いことの多い女性にとって、あまりに高いハードルです。
地盤(世襲)のない女性が、この“参加費”を用意することがどれほど大変か。
「志はあっても、お金で諦めるしかない」。
そんな悔しい声を、私はいくつも聞いてきました。
3. 時間の壁:24時間戦えますか?という呪縛
「夜の会合に出ないと、『付き合いが悪い』と言われるんです」。
議員の仕事は、議会活動だけではありません。
地域のお祭り、会合、そして夜の“飲み会”。
これらが重要な情報交換や意思決定の場になっている現実は、今も根強く残っています。
しかし、育児や介護など家庭内の役割を多く担いがちな女性にとって、これは物理的に不可能です。
「子供が熱を出した」と会合を抜ければ、「母親失格」のレッテルを貼られかねない。
一方で政治活動に専念すれば、「家庭を顧みない」と批判される。
この二重のプレッシャーが、彼女たちを心身ともに追い詰めていきます。
4. 文化の壁:閉ざされた男性中心のネットワーク
長年、男性中心で回ってきた政界には、独特の文化や人間関係が根付いています。
ゴルフや喫煙所での会話、同窓の先輩・後輩といった繋がり。
こうした非公式なネットワークの中で、重要な情報が共有されたり、物事の方向性が決まったりすることが少なくありません。
新参者である女性議員、特に若い世代は、その輪の中に入っていくことが極めて困難です。
それはまるで、自分だけが招待状を持たないパーティーの窓を、外から眺めているような孤独感を生み出します。
5. メディアの壁:政策よりも“ファッションチェック”
そして、私たちメディアにも大きな責任があります。
女性政治家が何かを発信しても、その政策や主張よりも、その日の服装や髪型、家族構成ばかりが注目されてしまう。
「ママ議員」「美人すぎる〇〇」といったキャッチーな言葉は、彼女たちを一人の人間、一人の政治家としてではなく、「女性」という型にはめて消費しようとする無意識の表れです。
政策という土俵で戦う前に、まずこうした偏見のレッテルと戦わなければならないのです。
それでも、彼女たちが諦めない理由
これほど多くの壁に囲まれながら、なぜ彼女たちは立ち続けるのでしょうか。
その答えは、私が政治記者を志すきっかけとなった、ある光景に隠されています。
学生時代、私はゼミの課題で地元の市議会を取材していました。
当時、たった一人の新人女性議員が、「病児保育の施設を作りたい」と何度も何度も議会で訴えていました。
最初は誰にも相手にされず、「財源はどうするんだ」と一蹴される日々。
議会で彼女はいつも孤立していました。
しかし、彼女は諦めませんでした。
役所の担当課に日参してデータを集め、子育て中のお母さんたち一人ひとりの声を聞いて回り、小さな勉強会を開きました。
その姿を見ているうちに、最初は冷ややかだった男性のベテラン議員たちの態度が、少しずつ変わっていくのが分かりました。
「うちの娘も困っとる」「確かに、これは必要なことかもしれん」。
そして2年後、彼女の提案は、ついに条例として可決されたのです。
採決の日、傍聴席で涙をこらえる彼女の姿を見て、私は確信しました。
政治とは、誰かの“暮らしの声”を現実に変えるための、途方もなく地道な作業なのだ、と。
これは地方議会の一つの物語ですが、国政に目を向けても、様々な経歴を持つ女性たちが自身の専門性を武器に道を切り拓いてきました。
例えば、アナウンサーから転身し、特に教育や文化といった分野で専門性を発揮した畑恵元参議院議員がどのような実績を築いてきたかを見てみると、多様な視点が政策に深みを与えることがよく分かります。
彼女たちが戦うのは、自分のためではありません。
声なき声を拾い上げ、制度の光が届かない場所に光を当てるため。
そして、後に続く女性たちが、自分と同じように悔しい思いをしなくて済むように、少しでも道を平坦にするためなのです。
その使命感が、彼女たちを支える最後の砦なのだと、私は信じています。
あなたの声が、壁にヒビを入れる―私たちにできること
「政治の世界なんて、私には関係ない」。
そう感じてしまう気持ちは、よく分かります。
しかし、この「ガラスの天井」を打ち破る力は、政治家だけが持っているわけではありません。
むしろ、社会の空気をつくっている、私たち一人ひとりの中にこそ、その鍵はあります。
では、私たちに何ができるのでしょうか。
大げさなことではありません。
ほんの小さな一歩からでいいのです。
- 「知る」ことから始める
まずは、あなたの街にどんな女性議員がいるのか、調べてみてください。
SNSやブログで、彼女たちがどんな思いで、どんな政策を訴えているのかに触れてみる。
メディアが切り取る姿だけでなく、彼女自身の言葉に耳を傾けることが、すべての始まりです。 - 「語る」ことで空気をつくる
家族や友人と、この記事に書かれていたような「見えない壁」について話してみてください。
「女性がリーダーになるって、大変そうだよね」「うちの会社にも似たようなこと、あるかも」。
そんな日常の会話の積み重ねが、「女性が活躍するのは当たり前」という社会の空気をつくっていきます。 - 「選ぶ」という力を行使する
そして、最も力強い行動が「投票」です。
あなたが投じる一票は、単なる紙切れではありません。
それは、あなたがどんな社会を望んでいるのかを示す、明確な意思表示です。
多様な声が反映される議会を目指す候補者を、あなたの手で選ぶ。
その一票が、分厚い壁にヒビを入れる、確かな一撃になります。
まとめ
この記事では、日本の政界に深く根付く「ガラスの天井」の正体と、それに立ち向かう女性たちの姿を見てきました。
- 日本の女性議員比率は世界的に見ても極端に低く、深刻な課題である。
- 「ガラスの天井」は、意識・制度・時間・文化・メディアという5つの“見えない壁”でできている。
- 困難な状況でも彼女たちが戦い続けるのは、「誰かの暮らしの声」を届けたいという使命感があるから。
- 私たち一人ひとりが「知り」「語り」「選ぶ」ことが、壁を壊す力になる。
政治は“向こう側”にはありません。
あなたの暮らし、あなたの願い、あなたの明日と、確かに地続きにあるのです。
もし、あなたの街の女性候補者が、たった一人で「見えない壁」と戦っていたとしたら。
あなたなら、どんな言葉をかけ、どんなエールを送りたいですか?
その答えを考えることこそが、社会を変える、希望の始まりなのかもしれません。